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2022/09/02
極私観2:サウナ空間における、映像視聴の必要性は有りや無しや

記事作成日:2022/09/02

記事を書いた人
カワウラ=サトル

カワウラ=サトル

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蝉の声が遠のいた。
入道雲も、どこかへ消えた。
そう。夏はもう、終わってしまったのだ。

今夏は、コロナ禍の例年とは違い、いくらか行動制限が緩和された。
思い思いに過ごされた方も多くいるだろう。
私もご多分に漏れず、小さな旅に出たのである。
今回は、そんな思い出を、想いに任せて綴りたい。

成夏八月。
路面電車が静かに走る街、豊橋。
観劇のために、私は降り立ったのである。
曇り空の朝方は、まだ涼しい。
幕が上がるまで、大分時間に余裕がある。
駅そばを朝食にしたのち、
自然と足が赴いてしまうのは、やはりあの場所。

『サウナ』である。

朝・昼・晩と、一日を三分割した場合、
「どの時間にサウナに入るのが好きか」と問われれば、
脊髄反射で、「朝」と答える私。
一日の始まりとして、この上ない贅沢ではないか。

身体を清めたのち、ドライではなく、スチームから始める。
これは、時間が有り余っている時の私のクリシェである。
水蒸気が全身を包む。
大雨の中を傘も差さずに走り抜けるかのような、興奮と爽快感が押し寄せる。
この後に待ち受ける、ドライへの期待感が、否応なしに昂まる。

そしてドライへ。
利用客は私一人。
サウナストーンの真ん前、二段目に優雅に腰掛ける。
サウナ空間において大事なのは、『温度と湿度のユニゾン』である。
どちらかが強すぎても弱すぎてもダメなのである。
互いがベストのパフォーマンスをしてこそ、
美しいハーモニーが生み出されるのである。
私は座して甘受するのみ。

はぁ、言葉にならない。
合法で得られる多幸感として、これ以上のものを私は知らない。

そんなこんなで、ようやく表題について触れていきたい。
この日は、広島にリトルボーイが投下された日であった。
サウナ室にはテレビが設えてあり、そこからは、平和祈念式典の中継映像が流れていた。
その様子を、汗だくになって静かに視つめる。
腰にタオルを巻き付けただけの姿で。

突如、「私は、なんと罪なことをしているのだ!」と、
背徳感が襲い、頭の中が冷え冷えとする。
ただ同時に、集中力が高まり、私の中に蓄積された、広島の歴史に焦点が当てられる。
情報に対する処理の速度が早まった気がする。

気付けば12分が経過。
サウナ室から退出し、水風呂へと向かう。
ビシッと肌が引き締まるものの、
「俺は何をしているんだ」という、心の靄が取り払えない。
その繰り返しで4セット。
身体は癒えたが、心はロンリー気持ちは「…」状態。

つまり、何を書きたかったのかといえば、
サウナ室は、本来は己との対話空間であり、他者との会話空間ではないのだ。
テレビも同様で、外部からの情報というものは、
往々にして、ジャミングになってしまうということなのだ。
この日はたまたま、原爆投下のニュースであったが、野球中継でも同じこと。
試合に視入っていると、直ぐに時間が過ぎ、
サウナの持つ、メディテーション機能が失われてしまうのだ。
また、テレビ視聴環境があることにより、
人によっては入室時間が長くなり過ぎてしまい、
大量の発汗と熱当たりで、返って健康被害がもたらされかねないという懸念もある。

要するに私は、サウナ室にテレビは不要派です!

筆に任せて行き着いた結果が、こんな文章になってしまった。
ブログとは難しいものですな。
お付き合い頂いた方々、有難う存じます。
それでは、次回をご期待下さい。さよなら、さよなら、さよなら。

記事を書いた人
カワウラ=サトル

カワウラ=サトル